2009年8月31日 14:01 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

出版社/著者からの内容紹介
2006年大宅壮一ノンフィクション賞を圧倒的評価で受賞!!
文章の品格、構成の的確さ、抑制のきいた表現。
各紙誌絶賛の傑作。

硫黄島で米軍を最も怖れさせた指揮官は、家族に手紙を送り続けた父でもあった。
絶海の孤島・硫黄島で、総指揮官は何を思い、いかに戦ったのか......。妻子を気遣う41通の手紙。死にゆく将兵を「散るぞ悲しき」とうたった帝国軍人らしからぬ辞世。
玉砕という美学を拒み、最期まで部下と行動を共にした指揮官のぎりぎりの胸中に迫る。いま、日本人を考えるための必読書。

内容(「BOOK」データベースより)
娘よ!妻よ!絶海の孤島からの手紙が胸を打つ―水涸れ弾尽きる凄惨な戦場と化した、本土防衛の最前線・硫黄島。その知略で米軍を最も怖れさせた陸軍中将栗林忠道は、粗末なテントに起居しながら、留守宅の幼い末娘を夢に見、お勝手の隙間風や空襲の心配をする愛情こまやかな父でもあった―。死よりも、苦しい生を生きた烈々たる記録。感涙のノンフィクション。

 

2009年8月27日 17:06 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 
内容(「MARC」データベースより)
この必死部隊には、私の予期とはおよそ正反対の底抜けの明るさが漂っていた...(山岡荘八)。特攻専門の部隊として編成された神雷部隊。実際に死と向いあった元特攻隊員達がその日々を生々しく回想する。写真・図版等多数収録。
 
 
 

2009年8月22日 11:19 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

メタローグ

独り善がりな参謀やトップのために一般の兵士が犬死していくという図式は、多くの敗け戦に見られるが、その最も顕著な例の一つ<ノモンハン戦>を迫真の筆致で描く。著者はこの戦闘の実質の責任者であり、さらに日本を太平洋戦争に引きずり込むのにも加担した人物と戦後会うのだが(何と国会議員!)それを述懐して、<絶対悪>と吐き捨てるように書いている。冷静な記述に撤する著者が記した、最も痛切な言葉の一つだろう。暴走する陸軍や関東軍を当時のマスコミや右翼、若手外交官から国民までもが支持していたことも詳述されていて、時流の闇の深さを痛感させる。(守屋淳)
『ことし読む本いち押しガイド1999』 Copyright© メタローグ. All rights reserved.
--このテキストは、 単行本 版に関連付けられています。

出版社/著者からの内容紹介
司馬遼太郎氏が最後にとり組もうとして果たせなかったテーマを、共に取材した著者がモスクワ・ベルリンの動静を絡めつつ描いた傑作

2009年8月17日 17:59 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

出版社 / 著者からの内容紹介
今、地球上にはおよそ3万発の核兵器が現存するといわれています。被爆体験の悲しみや怖さが人びとから忘れ去られた瞬間に悲劇がまた繰り返される可能性は、その数だけ存在しています。
本書『原爆写真 ノーモア ヒロシマ・ナガサキ』は、厳選された写真・絵画111点に、詩6点、井上ひさし・林京子・平岡敬・広河隆一・松谷みよ子ら5名の作家たちが原爆と平和によせる想いを新たに綴ったエッセイ、現代を生きる被爆者への取材レポートを加え、ドキュメンタリー形式に構成した1冊の写真集です。戦争や原爆を知らない人も惨事の全体像を理解できるよう、丁寧な解説と写真キャプションを付し、「原爆の記憶」を過去と現在の視点から伝えます。また、日常の生活に突然ふりかかった被爆体験を、被爆国である日本の若い人ばかりでなく地球上の全ての人たちに知ってほしいという願いから、本文は日英2ヵ国語表記としました。
たった60年前に日本が体験した原爆。いまだに終わらない「痛み」がここにあります。


内容(「MARC」データベースより)
原子爆弾を投下された広島・長崎の惨禍・悲劇を記録した写真集。平和の原点であると同時に、人類が直面している「核時代」の原点に立ち返り、日本・世界の未来を考える。日本図書センター創立30周年特別企画。英文併記。

 

2009年8月 8日 14:37 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

Amazon.co.jp
   原爆を投下しなくても、ソ連が参戦しなくても、米軍の本土上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は1945年12月31日以前、「あらゆる可能性を考えに入れても1945年11月1日までに」無条件降伏していただろう―広島、長崎への原爆投下について1946年7月、米戦略爆撃調査団がトルーマン大統領に提出した総括報告はこう述べている。

   ならばなぜ、トルーマンは原爆投下を決定したのか。欧州支配の野望を抱くソ連に、衝撃を与えるためのデモンストレーションであったとみる歴史学者がいる。そうした政治的要因にくわえて、ロナルド・タカキ米カリフォルニア大教授は、子供のころ「いくじなし」といわれたトルーマンの性格と人種差別主義に起因していると指摘する(草思社刊『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』)。

   本書も原爆投下決定の裏に働くトルーマンの劣等意識に鋭い目を向けている。ルーズベルトの急死で、はからずも大統領になった「小物」が、権力と原子爆弾という史上最も恐ろしい遺産を手にしてしまった。ルーズベルトが「日本派」のジョセフ・グルー元駐日大使とともに進めようとしていた対日政策は、トルーマンと彼の唯ひとりの相談相手ジェームズ・バーンズに忘れ去られる。日本が和平の仲介を期待するソ連は、米英との密約に基づき対日参戦の準備を進め、トルーマンはソ連の参戦を原爆投下の後に誘導することにのみ腐心していた。

   著者は米国、ソ連、中国(延安の毛沢東と重慶の蒋介石)の間の駆け引きと、「時局収拾」をめぐる日本指導部の無駄な努力を詳述しながら、「原爆投下までは日本を降伏させまい」とするトルーマン・バーンズ・コンビの術策を描き出す。中で光芒を放っているのは、1945年6月26日、グルーがチューリヒに赴き、日本のスイス駐在公使に君主制の存続を保障して降伏を勧めるくだりである。もとよりこれは著者のいう「絵空事」だが、敢えてこのようなフィクションを挿入したところに「ルーズベルトとグルーありせば」という著者の強い思いが感じられる。(伊藤延司)

出版社 / 著者からの内容紹介
トルーマンの原爆投下の理由については、終戦時の首相鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を黙殺したからだ、あるいは百万の米兵を救うためだったとの解釈がなされてきた。本書はこれらの通説を完全に覆すものだ。著者は、昭和19年の日本軍の一号作戦から説き起こし、その結果に衝撃を受けたルーズベルト大統領がドイツ降伏後一日も早く日本を降伏させねばならないと考える一方、日本では昭和20年6月22日に天皇が「時局収拾」を述べて降伏の意向をかためていたことを指摘。そのうえで、原爆実験の日、投下準備完了の日、ポツダム会談開催日、ソ連参戦の日という原爆投下にいたる4つの重要な日付を手がかりに、ルーズベルトの急逝後、新大統領となったトルーマンとその最側近であったバーンズが、それぞれの日付をめぐって、どのように動き、いかなる発言をしたかをとりあげて精緻に分析していく。結局のところ、二人は日本の降伏を早めたいという考えなど持っておらず、それとはまったく逆の発送のもと、すなわち日本が降伏する前に、またソ連が参戦してしまう前に原爆を世界に公開したいがために、政府・軍の高官に悟られぬよう極秘のうちに巧妙な計画を立てていたと著差は説く。その計画のなかには、日本が「ポツダム宣言」を最後通牒と受け取らぬような仕掛けも含まれていたのである。洞察力に富む推論に、まさに目が開かれる重いがする。

 

2009年8月 3日 11:24 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

 出版社/著者からの内容紹介
敗者の悲哀というべきか。

一九四二年二月二八日のスラバヤ沖海戦のあと、日本海軍は、自艦を撃沈され海上を漂流する約千名の連合国兵士を救助した。文字どおり武士道が発揮された瞬間であり、世界海戦史上でも稀な感動的な出来事なのだが、にもかかわらず、これまで戦史にのることもなく、ほとんど語られることがなかった。それは、工藤艦長が、戦後自衛隊にすすむこともなく、同期の人たちの勧めで就職することもなく、周囲に自らを語ることもなかったという事情もあるが、やはり東京裁判史観の影響があったことは否めまい。

ところが、平成一五年、スラバヤ沖海戦で「雷」に救助された元英国海軍少尉フォル卿が来日、護衛艦の観閲式にも参列する。このとき、元海上自衛隊士官である著者はフォール卿から依頼を受け、すでに亡くなってはいたが、工藤艦長の消息を尋ねることになる。著者は数か月かけて、工藤艦長の墓地の所在地などを探りあてフォール卿に報告する。この間著者は当時「雷」の乗組員で存命の三名の人たちとも接触、工藤艦長の人となりと救助時の詳細を聞くことができたのである。これが著者が本書を執筆する動機となった。その三名とは、航海長の谷川清澄元少佐、艦長伝令の佐々木確治一等水兵、砲術手の勝又一一等水兵である。この人たちの記憶は鮮明で、これによって救助当日の状況は正確に再現されることになった。また、フォール卿へのインタビューと、工藤艦長への献辞が掲げられている自伝『マイ・ラッキー・ライフ』が証言を補強している。

内容(「BOOK」データベースより)
1942年3月、スラバヤ沖海戦のあと、武士道を発揮、危険をおかして英兵422名を救出した工藤少佐の感動の物語。

2009年5月 7日 15:32 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

出版社 / 著者からの内容紹介
「私は真実を真実と認め、正しき法を適用したにすぎない」。判事11名の中ただ一人日本無罪を主張した唯一の国際法学者、パール判事。国際法に拠らず、事後法によって行われた東京裁判を戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」とし、違法だと非難した彼の主張は、その後世界の識者に高く評価された。本書は、パール判決文を中心にマッカーサーも認めた「東京裁判の不正」を問う。戦後日本人の歪んだ贖罪意識にメスを入れる、不朽の名著復刊!

内容(「BOOK」データベースより)
東京裁判の真の被害者は「法の真理」だった!判事十一名の中ただ一人日本無罪を主張したパール博士。判事中唯一の国際法学者だった彼は、国際法に拠らず、事後法によって行われた裁判を、戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」であり、違法裁判であると非難した。後にその主張は世界中で高く評価された。本書は、パール判決文を中心に、マッカーサーも認めた「東京裁判の不正」を問う。多くの日本人が信じて疑わなかった東京裁判史観と、戦後日本人の歪んだ贖罪意識にメスを入れる不朽の名著を復刊。

 

2009年3月 7日 14:52 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 

内容(「BOOK」データベースより)
1990年からアメリカで、ついで1992年から日本各地で彼の写真展は開催され、話題を集める。しかし、この夏に予定されていたワシントンのスミソニアン博物館での原爆写真展は、すでに報道されたように在郷軍人の圧力でキャンセルされた。ここにおさめられた57点の写真は、スミソニアンではついに展示されなかった真実の記録である。

内容(「MARC」データベースより)
戦争が日本各地に残した傷跡を私用カメラでも撮影したJ・オダネル。彼は密かに写真を持ち帰り、悲惨な光景の記憶とともに屋根裏部屋のトランクの中にしまい込んだ。43年後、トランクを開けさせたのは彼の平和への願いだった。*

 

2009年2月 7日 16:26 | コメント(0) | トラックバック(0)

 

 
内容(「BOOK」データベースより)
血戦ガダルカナル島で、戦い敗れ、弾丸もなく、食糧もなく、骨と皮に痩せおとろえた五ヵ月有余。そしてまた、遠い道―地の果てインパールの激戦に敗れ、どしゃ降る雨季の印緬国境に、るいるいと横たわる日本兵の"白骨街道"―生ける屍が、かすかな声で哀願した。「私を殺してください。お願いします」と。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
高崎 伝
昭和15年現役入隊。南支派遣軍、「菊」第18師団歩兵第124連隊小尾中隊、元陸軍伍長。ガ島撤退後、烈兵団ビルマ派遣となる。日華事変南支戦線より太平洋戦争緒戦、ボルネオ作戦(北ボルネオ、サンダカン、ブルネイ、ミリ、クチン、サンゴー、ポンチャナック、シンカワン攻略)、ついでフィリピン作戦(セブ島作戦、セブ市街戦より全島攻略、ミンダナオ島作戦、コタバト、ダンサラン、イリガン、カガヤン攻略)に参加。パラオ島をへて、ガダルカナル作戦参加。撤退後ビルマ派遣。インド・インパール作戦、撤退後にイラワジ河大戦に参加。シャン高原撤退後サルウィン河沿岸の英軍空挺部隊討伐作戦中に終戦。復員後、大阪にて茶商をいとなむ。昭和59年5月歿(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 

2008年11月19日 11:32 | コメント(0) | トラックバック(0)


 

出版社/著者からの内容紹介
敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士の方が遥かに多かった----。昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令......。「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。

著者について
1923(大正12)年京都府生まれ。昭和18年1月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。終戦後、BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。昭和25年スガモ・プリズンに送還。現在、社会福祉法人「新生会」と同「青い鳥」の理事長を務める。著書に『魂鎮への道』など。

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